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「フリムン柿8年」 |
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桃栗3年、フリムン柿8年。我が家の完成も8年や。 我が家の建築を着工して8年、いよいよ、完成や。自分ではもう”建築中”に慣れ切ってもうて、8年ゆうてもそう長く思わんかった。けど、回りの人が「まだかいな、いつ完成するのや」としびれを切らしていた。ほんま、8年といえば、長い長い年月や。生まれた赤ん坊も8年も経てば小学3年生や。ハイウェイの向こう側に住む見知らぬアメリカ人までもが心配して、「あんた達の家はいったいいつ完成するのですか」と夫婦で見にきたこともある。「アメリカの嫁はんはそんなに長く待ってくれんよ」と笑いながら言うアメリカ人もいた。 人の家ばかりを建ててる大工が一生に一度は自分の手で自分の家を建ててみたい。見よう見真似で覚えた自分の大工の技術の集大成として、自分の家を自分の好みに合わせて建ててみたかった。これが26年間アメリカで大工をしたワイの夢やったんや。一方、大工が他人の家を建てるのは当たり前で生き甲斐やけど、大工が自分の家を自分で建てるのは、なんやもの足りんような気持ちもするんや。建ててもお金がもらえんからのー。レストランのクックさんは自分の家ではクックしない人が多いと聞く。ほんま、それと似たようなもんや。 日本でも自分で自分の家を建てる人はいるようやけど、アメリカでは器用な人が自分で家を建てたという話をよく聞く。建築士、電気屋さんや水道配管工のライセンスを持っていなくてもアメリカでは建築局から建築許可をもらって、インスペクター(検査官)の検査をパスすれば誰でも家が建てられる。だだし、規格に合った図面を書いて行かないと建築局は受け付けてくれまへん。建築許可には有効期限もある。ワイの場合、建築期間があまり長かったから、建築許可が途中で切れてもうて、もう一度取り直しもした。カリフォニア・モントレー郡建築局の話では、普通1軒の家を建てる期間は長くて18ヶ月らしい。 どうもアメリカの家はなるべく急いで建てないといけないような仕組みになっているような気がする。木が乾かないうちに建てる。何でやゆうたら、アメリカのツーバイフォー工法はほとんどが釘で打ち付けるから、木が乾くと硬くなって釘が打ちにくくなる。強く打つとすぐに釘が曲がって、ようけいに時間がかかる。製材直後の、水分を含んでいるが、真っ直ぐな状態のうちに釘で骨組みをして、すぐに内外の壁板を張り付け、乾燥による木の反りを防ぐのだと思う。木は乾かさないで使うとシロアリがはいると言うが、アメリカではそんなことお構いなしで、木が乾かないうちに家を建てるんや。家へ来たインスペクターのボスに「昔の日本は家を建てる10年も前から木を切って乾かすのですよ」と言ったら信じられんような顔をしていた。日本の建築は木の肌を見せ、木の反りに合わせて作る、アメリカの建築は木の肌を見せないでほとんど内外の壁で木を抱き込んで作る。これは大きな違いや。アメリカのインスペクターが家の完成を急がせるのはもう一つ別の意味もあるような気もする。早く完成させて、早く家屋税を取りたい、官庁も金がほしいのや。 8年もかかったんはこんな訳がおまんねん、まあ、聞いとくんなはれ。 ここモントレー・ブラッドレーの山の中(ロスとサンフランシスコのほぼ中間)に3万2千坪の土地を7万5千ドルで15年払いの月賦で買ったんが19年前やった。井戸屋さんに井戸を掘ってもらい、見晴らしのええ山の中腹をブルドーザーで削り、整地してもらったんが8年前。それから仕事の合間にこつこつと家造りを始めましたんや。 電柱を買ってきて自分で穴を掘って電柱を立て、電気のメーターボックスの配線も自分でやりましたんや。本を見ながら配線したんやけど、割と簡単にいきよった。電気会社のインスペクターが誉めてくれよった。難儀したんは電柱を立てる穴掘りやった。スコップの柄よりも長い2メートルも掘らんならんさかいに難儀しましたんや。最初の1メートルは自分が中に入って掘れるくらいの広い穴を掘った。さらに、その穴の真ん中に電柱が入る大きさの深さ1メートルの穴を掘りましたんや。後でこの穴に電柱を立てて2段の穴を順次埋め戻せばええだけや。 さて、穴は掘ったけど、長い電柱は自分ではよう立てん。隣のケンに頼んでバックホーというトラクトールで吊り上げて立ててもろうた。お礼にバッドワイザーのビール24缶やった。コンクリートの基礎工事、家の骨組み、電気配線、水道、下水配管工事、内装、外壁のモルタル工事、ペイント、床張り、なんでも自分でやりましたんや。家の建築中は住む家がないさかいに、千ドルで買ったおんぼろのトレーラー(キャンピングカー)で生活しながら8年間頑張りましたんや。このトレーラーには助けられた。何しろ、毎月の家賃がいらんからのー。これは大きかった。 でも、難儀しましたんや。世の中計算どおり、思いどおりにはいきまへん。 井戸掘り費用、ブルドーザーでの整地費用、建築許可費用、骨組みの材木(ツーバイフォー)代に蓄えてあった金はあっという間に飛んでもうた。たちまち無一文になって、生活費にも困った。それでも、助けてくれと親戚にも知り合いにもそう簡単には言えない。言えるのは昔いくらか自分が親切にしてあげたお人や。日本の弟の道雄に恥をしのんで、無理を言って助けてもろうた。涙が止まらないほどうれしかった。人にはできる時にいっぱいに親切にしとくべきやとつくづく思った。これでまた生きることができるなあと思った。十分な金も貯めずに家を建て始めるワイはやはりアホや、フリムンやと思った。 それでも生活は苦しかった。材料を買う金がないから家の建築は遅くなるばかり。 日本人が一人もいない、人間よりも牛の数が多いこんな山の中、ワイの本職とする障子、茶室の注文もあるはずがない。ロスとサンフランシスコの日本語新聞に「障子、茶室造ります」と1行だけの広告を出しましたんや。注文が来ると、ここ山の中の俄か仕立ての掘建て小屋で障子を造り、茶室の切込みをして、ロスやサンフランシスコのお客さんの家やモーテルに寝泊りしながら取り付け組み立てた。南のロスまで5時間、北のサンフランシスコまで3時間。土曜日、日曜日も関係なし、仕事のない日が休み。その休みの日には儲けたお金全部で建築材料を買い、もくもくとがむしゃらに家を建て続けた。 とうとう無理が祟った。建築開始4年を過ぎたころ足が象の足のように腫れて歩けなくなってしもうた。何日たってもよくならない、ついに決心して医者へ行った。その場で、「働いたら、アカン」とドクターストップがかかった。血圧213、心臓肥大、痛風で即強制入院させられた。さっぱりわやや。身体障害者になってもうたんや。今までの収入の1/5か1/4の身体障害者年金をもらうベッドの上での生活が始まった。身体障害者で、有り金ゼロ、家の建築はストップや。ワイの夢の家も未完成のままで、俺の人生も終わりか。人生諦めの心境やった。難儀やのう。 家を建てるのに無理して倒れた、有り金を使い果たした。 目の前が真っ暗になった。最悪の状態や。でも、落ち込んで悶々としているうちに、「ここらで体を休めよ、もうこれ以上のどん底はない、これからは這い上がるばかりだ」と、ウヤフジ(ご先祖)が教えているのだと思えてきた。こんな一大事の時には何時も喜界島のウヤフジがワイを助けてくれるんや。「大工仕事ができなくてもベッドの上でできることがある」と、一生に一度あるかないかの「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を書かせたのもウヤフジや。家よりも本が先に完成してもうた。 「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を書いているうちに、発見したことがあった。それは数え切れないほどの職業を変えたのに、ワイは一度も諦めたことがないということや。職業を変えるたびに、もりもりとファイトが沸いてきた。ワイは諦めるという言葉を知らなかったのや。そうや、ワイの本の副題どおり人生「諦めたらカンネン」や。よっしゃ、この夢の家も何年かかってもええ、どないにかして完成させたると決心したんや。これはベッドの上で本を書き上げた大きな副産物やった。 どん底から這い上がりだすと、次々とええことが起きだした。 嫁はんがこんな山の中で仕事を見つけた。探せばあるのや。探さないから見つからないのや。そして、ワイの身体の調子もよくなってきた。軽い大工仕事はできるようになった。ワイの身体障害者の年金で何とか生活できるから、嫁はんの収入で建築材料を買って、少しずつ、少しずつ、休み、休み、家の工事を再開した。この少しずつ、少しずつ、休み、休みが時間を長引かせて次の材料を買う金を貯めるのにちょうどええ具合だった。借金をしないで家を建てるのだから、完成しても支払いの心配がいらん。「おまえは賢いやっちゃ」と言うアメリカ人もいる。人間のとり方はいろいろや。 金のない身体障害者は家を建てるのにも人を雇う金がない。二人でやる仕事も一人でやらなければならない。一人でやるにも以前の大工の腕力や足腰の力を失っている。頭を使って、力を使わないようにしなければならない。健康な時はあまり考えもせず、ただ力任せに身体を使って、また、ヘルパーを使って、がむしゃらに仕事をしてきた。身体障害者になってからはそうはいかない。人を使わず、金を使わず、力を使わず、楽にひとりでできるように深く考えた。頭は使ったらいくらでもええ知恵が湧くこともわかった。たとえば、地中を通す電気ワイヤの溝を掘るのでも、地面が硬くてツルハシやスコップが使えなかったので、ホースの水の水圧を利用して掘った。水は自分の井戸から出る水でいくら使ってもただやから助かった。 一番の自慢は、日本の藁床(わらどこ)の畳よりも重たい、そしてサイズも畳より一回りも大きい防火性の天井板(およそ50枚)を一人でらくらくと高い天井に張り付けたことや。この重たくて大きな天井板を天井に張るには身体の大きい頑強なアメリカ人も一人ではできない。どうしても二人いる。友人のバブと二人で知恵を出し合って、この天井板を張り付ける機械を作ったんや。蜘蛛みたいに天井にぴったりとくっ付いて作業できるから、名づけて「スパイダーマン」。「この天井板を私一人で張ったんや」と言うと誰もが疑いの目で見る。目の前で実際に「スパイダーマン」を使って張って見せると、目を丸くして「特許をとって儲けたらいい」と言う。身体障害者になって頭を使うこと、文章の勉強をして、深く考えることを学んだ。深く考えることで、体を使わない、力を使わない、金を使わない、すばらしい知恵が湧く。 うれしいことが次々と起こった。ワイの少しずつ、少しずつ、こつこつ働く姿に周りのアメリカ人の同情が起こった。かわいそうに思ったのだろうか。 家の骨組みができたのに、なかなか窓が入らないのを見て、隣のポリスのチコが12の窓全部の材料を買ってあげると言う。隣町のベーカースフィールドにすでに安い窓屋さんも見つけてあると言うではないか。胸がキューと締め付けられるようなうれしい気分にさせられた。 その日の午後また偶然が起きた。教会へ行くと、友人のバブが外回りのモルタルの費用は自分が払ってあげる、そしてモルタルの塗り方を教えながら自分も手伝うと言うではないか。偶然は続く。周りのアメリカ人だけではない、ロスの私のお客さんの堀野さんも、今はあの世にいる親友の志保やレストランの大将の嫁はんも、娘のまきこも、息子のデールも「早う家を完成して」とお金を送ってきてくれた。 それだけではない、おいしい目もさせてもうた。ロスの「フリムン徳さん応援団」の金子さん、井手尾さんは手弁当で、遠路ロスから3回も来てくれて、まだ風呂、トイレも使えない建築中の家に泊まりながら、ペンキ、穴埋めの土木工事などを手伝ってくれた。この井手尾さんの焼きさば寿司がほんまうまいんや。道場六三郎の料理を本で勉強したと言う。隠れた料理の達人や。井手尾さんのおいしい料理を食べながら仕事にも精が出ましたんや。 「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版できたのも喜界島の同級生や弟妹のお陰、この家を完成できるのも回りの人やお客さんのお陰。ウヤフジのお陰。沢山の人の善意のお陰でとうとう夢の家が完成や。私はラッキーな人間や。ワイはそれほど人様に親切にしてきたやろうか。昔、ワイのウヤフジが人様に親切にしたのやろうか。目に見えない大きな力がワイを助ける輪を広げてくれているように思えてならない。 とうとうフリムン徳さんは皆さんの善意のお陰とウヤフジのお陰で諦めずに8年かけて夢の家を完成します。8年間でつぎ込んだ材料費が約3万ドル(330万円)、火災保険屋さんに家の値打ちを聞いたら、約24万ドル(2640万円)。無駄使いの多いワイには3万ドルという貯金は何年経ってもできなかったと思う。でも8年間で少しずつ材料を買った金は合計すると3万ドル貯まったことになる。貯金というのは難しいけど、物を買って残すというのはできまんねんなあ。貯金は貯まってもおろして使うからなかなか貯まらん、ところが買ったモンは残る。その買い物を何にするかが人生を変えることにもなりそうでんなあ。 3万ドルの柿の木を植えて8年後に24万ドルの柿がなりました。 少しずつを馬鹿にしてはあきまへんなあ。諦めてもあきまへんなあ。 少しずつ少しずつは8年間で大きな家になりました。 リル、バイ、リル、メイクス、ビッグ(Little by Little makes BIGS)。 完成の日にワイは柿ノ木を庭に植えようと思うてます。 皆さん、ほんまに、アイガトウサマ。 フリムン徳さん |
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| 「徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。 |
| 此方の画像及び文章は制作者の許可を頂いて掲載していますのでご利用はご遠慮下さい。03.10.29 |
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