「フリムン徳さんのアメリカ便り」(第7号)「EDDYよ、さよーなら」
                                    

2005.1.30
 人間の命って、はかないもんやなあ。人間の死は突然にやってくるんやなあ。「フリムン徳さんのアメリカ便り」第6号「思い出のアーケーディア」で、以前、私の家の隣に住んでいた大好きなEDDYのことを書いた。元プロバスケットの選手で、見上げるほど背が高い、90才のEDDYのことです。目が悪いのにゴルフが趣味やから、黄色いボールを使って、この歳で近くのゴルフ場で週二回ラウンドする。白いボールより、黄色いボールが見やすいと言っていた。「思い出のアーケーディア」が応援団メールで配信された2、3日後、ロサンゼルスに住んでいる私の娘のまきこから電話が入った。「パパ、EDDYが死んだよ」。えーっ。一瞬呼吸が止まり、動悸が高まり、呆然となった。
 
 そう言えば、EDDYの死んだ12月18日のその日、私は、アーケーディアでのEDDYのことを必死になって思い出しながら、「思い出のアーケーディア」の原稿をを書いていたのだ。文章の書き方を勉強中の私は、日頃は、そうすらすらと文章は書けないのに、このEDDYについてのエッセイは、信号無しのフリーウェイを車で走るようにスムーズに筆が進んだ。彼が私に書かせていたのだ。これを「ムシの知らせ」とでもいうのでしょうか。゙

 目の悪い彼は車の運転は出来なかった。ショッピングは93歳になる妻のオデッサが運転して二人で行く。週に何回か運動がてら、かすかに見える視力と白い杖を頼りに、近くのレストランへ歩いて行く。クリスマスを一週間後に控えた12月18日、彼はいつものように一人で近くの行きつけのレストランへ向かっていた。その時に異変が起きた。彼が走ってきた車に引かれそうになったのだ。車が悪いか、彼が悪いか、それはわからない。怪我はなかったものの、目の不自由な彼には大変なショックだったろう。優しい彼のことだから、車の運転手には「OK、OK」と言ってそのままレストランへ向かったに違いない。レストランのドアを入ってきた真っ青な顔の彼を見たウェイトレスは、慌てて彼を椅子に座らせる。「どうしたの!!」と聞くと「車にひかれそうになった」。それが彼の最後の言葉だったらしい。救急車が来るのを待てずに、椅子に座ったまま息を引き取った。心臓麻痺だった。゙

 EDDYを亡くして一人になった93歳のオデッサが気になって、私はすぐに電話をした。オデッサはすぐに私とわかって、「徳さあん、徳さあん」と泣き崩れる。アメリカに住んで30年、多くのアメリカ人はなかなか「徳さん」と呼んでくれない。「徳さん」は覚えにくく、言いにくいのだ。それで、YOUですまされてしまうが、EDDYとオデッサは「徳さん」と呼んでくれる。ただそれだけでも私には親しみが湧く。泣きながらゆっくりと言うオデッサの言葉がまた私を揺さぶった。「私が93歳、彼が90歳なの。目のみえない彼を残して、先に私が死んではならないと毎日頑張って生きてきたのよ。そして、とうとう一人になってしまったわ」。近くだったら飛んで行って抱きしめてあげたいが遠すぎてどないにもできない。人間90歳以上まで生きると周りの知り合いが順番に亡くなって、頼れる人が少なくなる。オデッサは、助けてくれる人もなく、きちんとしたEDDYの葬式も出せずに、ただ焼いてもらっただけにしたらしい。孤独なオデッサがかわいそうでならない。゙

 オデッサの隣近所はチャイネィーズばかりで、言葉も習慣も違い親しく付き合っている人はいないのだろう。心細く、淋しく、助けが欲しかったのだろう。EDDYの死から2週間たって、娘のまきこに電話で知らせてきた。まきこは私や嫁はんと似て年寄りが好きで、年寄りの世話をよくやく。オデッサは近くの行きつけのマーケットまでの運転はできるが、遠くは運転できない。EDDYの死亡届や、いろんなEDDYの手続き、役所回りなど、まきこが仕事の休みの日にドライブしてオデッサを連れて回っている。まきこ、有り難う。゙

 長生きした孤独の老人が安心して住める世の中はどないにしたらできるのやろうか。個人の自由を重んじるアメリカ、孤独なアメリカの年寄り、それに似て来つつある日本、これでいいのでしょうか。貧しくてもええ、同じ屋根の下で、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供達が一緒に生活して、おじいちゃん、おばあちゃんが孫の面倒を見、子供がおじいちゃんおばあちゃんの面倒を見、子供を産むのも自分の家で、死ぬのも自分の家で。これが喜界島の昔の生活だった。私はこんな生活に憧れまんね。
 残された孤独の93歳のオデッサはアーケーディアの家を売って、ミゾーリー州の80何歳かになる妹のところへ引っ越して一緒に住むという。慣れないところで93歳になってからの新しい生活、うまいこといくやろうか、心配や。オデッサとはもう会うことはないかも知れない。東洋人の私達家族に親切にしてくれたアメリカ人家族を一つ失ってもうた。オデッサ、さようなら。EDDYよ、さよーなら。
フリムン徳さん

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徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。

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